アニエス・ヴァルダの"浜辺"

先日、『アニエスによるヴァルダ』(2019)という一風変わった映画を鑑賞した。アニエス・ヴァルダのフィルモグラフィーを総括するような、自身をテーマとした特異なドキュメンタリーであり、実際にこの作品が大監督の遺作となった。
アニエス・ヴァルダはヌーヴェル・ヴァーグを出発点とするフランス系の映画監督で、特に『5時から7時までのクレオ』が出世作。と言いつつ、僕は映画鑑賞に関してはまだまだド素人で、なんともこの遺作になってしまった『アニエスによるヴァルダ』を最初に観てしまったのだ。おかげで彼女の映画監督としての軌跡も朧気ながら掴めたし、それはそれでよかったのかもしれない。
今は『5時から7時までのクレオ』を鑑賞中だ(僕はサブスク配信では1時間ごとに観るのを途中で休憩するようにしている)。
僕たちの視座である「水の研究」という着眼においても、とても興味深い映画であった。特に後半部分の中で、監督の口から、海や浜辺に対する愛着について直接的に語られるシーンもある。アニエスは海面豊かなベルギー生まれで、フランス、イタリア、そしてアメリカと、どこへ移動しても海や浜辺を愛した。実際、『アニエスによるヴァルダ』で紹介されるアニエスの作品のうちにも、浜辺を映したシーンや映画が本当に多い。
その中で、とりわけ印象的な言葉があった。「壁と海(浜辺)は対立する」というものだ。
壁とは何だろう。
一回観ただけなのであまり具に覚えていないのだが、ヴァルダはインスタレーション作品にも積極的に取り組んでいた(その辺の紹介が、並大抵の監督にはとても収まりきらない彼女の実に旺盛な創作への情熱を物語っていて素晴らしい)のだが、その活動の中で、壁・海・浜辺を端的に表象したような、縦長のインスタレーション作品を制作したことがあった。
壁は無機質なものとして(色は黒だったか灰色だったか)鑑賞者の前に茫然と立ちはだかっている。その少し下に、広大な海を思わせる静止画(多分)が当て嵌められ、足元には浜辺に寄せては返す波が動画として表現されている。
壁・海・そして浜辺……これは何を意味するのだろうか。
『アニエスによるヴァルダ』の最後のシーンは、晩年の相棒となった、写真家・アーティストのJRと二人で浜辺の方に向かっているという実に隠喩めいたものであった。アニエスとJRは浜辺で椅子に座りながら海を見ている。彼女たちは海に乗り出す……あとは霧が多くかかっていて、彼女たちの姿は次第に見えなくなる。
これは明らかに死、特にアニエスの死の意識を示しているのだろう。「元いた場処へ還る」というような言い方もしていた。
これは、僕たち「水の研究」の視点からいっても、実に頷ける「海」の概念である。生というより、死の芳香と結びつく「海」。「死の海」。
さきほどの壁と浜辺のインスタレーション作品では、「死の海」とはまた違うニュアンスが表現されているのではないか、と思う。「壁」は僕たち主体の邪魔をする存在である。壁、僕たちを牽制し、圧倒するものとしての壁。
海はどちらかというと、ここでは「自由」にたゆたい「移動」するものとして在るのではないか。それから、森と海を繋ぐのが河川である。さらに、浜辺は海と陸地との緩衝地帯のようなものであるといってもよいのではなかろうか。いずれにせよ、「壁」(たとえば国境をなす壁、障壁)と「海」(自由に移動するもの、それから生と死が複雑曖昧に入り混じった中間地帯)の"あいだ"にあるものとしての「浜辺」。
ヴァルダの場所はいつも浜辺にあったのかもしれない。死につながる海を見つめる。片一方では、生活し、経済活動や家庭を育んでいく場所としての陸地がある。海を眼差しては、キャメラで撮り、今度は陸地を眼差しては写真やキャメラにおさめる。
アニエス・ヴァルダは海と陸のあいだ(それは決して両者を分断する"壁"ではない)で静かに「観照」する場所として、浜辺の傍に居続けた、とでも性急に結論付けたくなる。
ヴァルダは、映画にかかわる以前、写真家として活動していた。その写真の数々が本当に素晴らしかった。そのような経路を通じての映画制作であるのだから、写真美的な、ひとつひとつの「絵」に拘った映画監督でもあるのだろう。
『アニエスによるヴァルダ』は、まさに20世紀と21世紀を生き抜いた、一人の人間の中に横たわる歴史のフィルモグラフィーであるのかもしれない。