一本目の記事にこれはどうかなとも……期待していた辻村深月作品のこと。
あけましておめでとうございます。
基本的に散文(エッセイ)はnoteを利用しているのだけど、noteってやっぱり「作品の発表」っていう自分なりの意識があって、というのもnoteって利用者が今一番多いじゃないですか。文章を継続的に書いていくことを目指す人にとって、迂闊なことはなかなか書けないサービス。
なので他にもいくつかブログを持ってはいるんだけど、amebaは微妙に使いにくい。大きな広告がつねに表示されるので、書いているときすら気になってしまう。
また、「書も積りし・第二期」というブログで昔は書いていたんだけど
今ではほとんど使わなくなったし、誰も見ていないなーという状況で好き勝手にダークなことを書いていたから、それも違うなと。
新年になったことだし、心機一転ということで、性懲りもなく新しくブログを作ってみた。やっぱり、多くのことを書くには、はてなブログが一番適していると思う。何年も愛して使っておられる方も多い。
タイトルは「デカルト・ノート」。これは実際に今まで僕がキャンパスノートに日記やアイデア帳として使っているものの名前。本当はもう一冊あって、それが「憂鬱なる日記」。憂鬱なる日記が普通の意味での日記、そして「デカルト・ノート」がアイデア帳。だけどアイデア帳はほとんど使わなくなり、懐かしいのでこのブログに名を冠してみようと思う。
で…… noteには書きたくないな、ということをやってみたくて、それでこの場を作るに至ったのだ。動機不純。それでも、久しぶりにはてなブログをいじれて嬉しいかも。noteで発表しにくいことを書いていくのかな……それはそれで面白そう。
本題。辻村深月さんの『冷たい校舎の時は止まる』を今、読みあぐねている。

周りの方が辻村さんの本を読んでいて、その方は特に『ツナグ』が好きなんだ、と仰っていたけど、辻村さんはとかく売れっ子作家で、『ツナグ』の話をその方から聞いていて、作家に興味を持った。で、調べたら、なんでも少女のころから綾辻行人の大ファンで、彼にファンレターを送って交流を育んでいた(!)ほどの関係性であるらしい。
去年か一昨年か、あの『十角館の殺人』を初めて読んだ。思っていたのとは違ったが、ほうこれが新本格派ミステリと呼ばれるものなのか、と、自分の知識の無さに呆れるばかりである。
いつものくせで脱線ばかりするのだが、ミステリといったら僕はコナン・ドイルのシャーロックホームズシリーズ、あとは江戸川乱歩? とにかくまともに読んだことがないのである。アガサ・クリスティでさえつい最近一冊読んだくらいだ。傑作・名作と呼ばれるミステリー小説を(海外であれ国内であれ)読みたいとずっと思ってはいるので、ちまちまと買って読んだりもするのだけれど…… そんなこんなで「新本格派」と呼ばれる綾辻の作風を、ミステリー文学史の中にどのように位置づけるかなんてのも、まったく分かっていない。
で、ようやく本題。『冷たい校舎の時は止まる』は、辻村さんのデビュー長編小説である。そしてさらに大事なことは、この作品はずばり『十角館の殺人』への情熱を込めたオマージュであろうと推察されること。閉ざされた環境下で人が一人、一人と減っていくという骨子だ。
しかし、テイストはだいぶ異なる。辻村はこのよくある設定に、幻想とファンタジーを組み合わせ、およそ「普通のミステリー」とは異質な空間を描き出している。これはとても興味深い。彼女が通常のミステリー作家とは違うというのはその辺に理由がありそうだ。
この独創性はとても興味があるし魅力的でもあると思うのだが、普段から純文学的なものばかり読んでしまっている身としては、中々につらいものがある。文章はいたって問題なく、とても読みやすい。問題はいくつかあるのだが……辻村がこの密室サークル(?適切な呼称が分からない)での出来事にに幻想性とファンタジーをたっぷり盛ったもののほか、特に強烈に敷いている要素がある。青春モノ、といわれる側面だ。
登場人物たちは、ガラケーを使用している。『冷たい校舎の時は止まる』が出版されたのはゼロ年代(2000-2009)なので、当時の(平成の)高校生たちなのである。いわゆる「学園ノリ」というのがこの作品にも色濃くつきまとっている。
高校生たちは、一人一人、異質な環境下で「消えていく」のだが、その直前(消える、殺される直前)に彼らの生い立ちが作者の構成によって詳細に語られる、という体裁になっている。
辻村深月さんは、ここにこそ力を入れているのであろう。全部で7、8人の主要キャラクターのしっかりとした肉付け。彼らは基本的には恵まれた環境下で育ってきているのだが、それでも個々にそれなりの闇を抱えている。ありきたりだけど……
はっきり言って、あぁ平成の子どもたちのやってることだなぁ、と、今の令和の時代との大きな隔たりを感じてしまうのだ。いや、逆にこれはこれでとても興味深くもある。時代が変わっても、中学・高校生活というものは、基本的に同じようなものであるのかもしれない。思春期の叫び、アイデンティティの揺らぎ、未来への不安、仲間と絆……それでも!である。辻村が設定したこの高校生たちは、はっきりいって平和ボケしている。そしてそれは今や30代後半に差し掛かろうとしている僕のかつての姿でもある。あっ、読んでいるとまるで過去の自分を見ているようで辛かったのか……?
学校以外のことは何も語られない。登場人物の一人に「辻村深月」という作者の名前のままである重要な人物がいる。この人物は、学校での人間関係が原因で、自殺未遂の一歩手前のようなこともしている。だけど、それは強烈ないじめとかではないのだ。普通にありそうな、ソフトないじめ……? とでも呼べばいいのかどうかも怪しいが、とにかく友達との関係がうまくいかなくなって、それで落ち込んで拒食症になり、ほかの友達や親に相談することもできず……という。
これはあまりにクリシェ(紋切型)な構成ではなかろうか。もっとも、この長大な小説を辻村さんは大学に入って四年間書き続けたらしい。大学生の筆で、いささか稚拙になるのは仕方ないことかとも思う。『冷たい校舎の時は止まる』は文庫上下で全部で1200頁くらいあるので、これを国内の有名な「メフィスト賞」に応募した、むしろそれがまずすごいことなんだろうな、と思う。初めて本気で書いた小説が超・長編であった。メフィスト賞の選考委員の一人が綾辻行人であったというのも、また実に興味深い。
クリシェ批判はしても仕方ないが、にしても、この高校生たちの悲劇を伴った人生が、いまいちリアルに響いてこない。肉付けされていない。ならば、あそこまでして長々と彼らの半生を挿入する必要性はなかったと僕は考える。ただただ冗長になっているだけだ。実際、この作品を読んだ人の中で、「このくだりはもういいから早く犯人と動機を!!」となってしまった人も多かったのではなかろうか。
今まさに自分がそんな状態である(ちなみに下巻のあと300頁ほど)。
キャラクターのもっともらしい肉付けの失敗、冗長さ、あとなんといっても当の高校生たちの陳腐極まりない、軽薄な陽キャノリの会話文。
平成中期、脳内お花畑の人間を量産してしまった時代の、文学=小説。確かにこんな時代に、優れた文学性を持った作品は生まれにくいのかもしれない。辻村美月は純文学作家ではないし、今どんな小説を書かれているかも全く知らないんだけど、当時はこういうのが持て囃されたんだな、と思った。
アニメ的小説、いや、アニメ的リアリズム。そんな風にこの『冷たい校舎の時は止まる』を受け止めた。犯人はもう予想がついている。となると気になるのは動機だけ……それを300頁に渡って読まなければならないのかと思うと、うんざりする。もうネタバレ探すか…………